大森靖子『シンガーソングライター』歌詞考察

【はじめに】

 

余白のある歌詞だと思う。メタ的なタイトルも相まって、様々の解釈が可能だ。

以下ではこの歌を、「主体性の獲得」に関する歌(もしくは、「個=孤独であること」を肯定しない社会へ抗う歌)として解釈してみた。

歌詞に登場する人称代名詞は4つ。“ぼく” と “お前” と “おまえ” と “僕” だ。

ひらがな表記であるか、漢字表記であるかは、完全に使い分けられていると考えられ、<ぼく と 僕>、<お前 と おまえ> が同一人物ですらない可能性もあるが、以下では基本的に同一人物の異なる側面を指すものとして考察する(使い分けについては後述)。

 

 

【歌詞全文】

 

“ゆれる やれる 電車もビルもおわりの道具に見えたら

 ぼくも なんか 生きてるだけで 加害者だってわかった

 

 野菜や肉 断面をラップ ポカリで全部治りゃしない

 尻拭いをさせられるほうが楽

 もっと 人でなしの感情は心じゃないのか

 ミラクル馬鹿者丸腰

 

 生きさせて 息させて 遺棄させて

 なんなら抱いてもいいから

 狂わせて 狂わせて 狂ってたら

 入場できない?むしろ割引けよ

 お前に刺さる歌なんかは

 絶対かきたくないんだ

 人違いバラバラ殺歌

 シンガーソングライター

 

 human rights, beautiful, 目と鼻と口

 台風一過の朝凪

 死んでもいい幸せなんて せいぜいコンマ1秒

 

 選択肢なくて パパ活で整形

 奴隷なの誤魔化してる

 所詮歴史がぼくをつくっただけなの

 どうして美しくないのかな

 正義の面こそ 知らぬが仏レイシスト

 

 言わないで 言わないで 今なんか

 うざいの耐えられないから

 車乗って来るまでに 携帯は

 通信制限超えてとまった

 それっぽいうたで流行ってる

 前髪長すぎ予言者 話暗くて勘弁

 

 全てわかったと酔っている歌歌歌歌

 共感こそ些細な感情を無視して殺すから

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 刺さる音楽なんて聴くな

 おまえのことは歌ってない

 

 生きさせて 息させて 遺棄させて

 なんなら抱いてもいいから

 狂わせて 狂わせて 狂ってたら

 入場できない?むしろ割引けよ

 愛させて 愛させて 愛してる

 一生映えてろ 僕はいちぬけた

 アンチも神もおまえ自身

 僕はここにいる肉の塊さ

 人違い 僕を壊して

 シンガーソングライター

 救いたい おまえじゃなかった”

 

 Music Video→  大森靖子『シンガーソングライター』Music Video - YouTube

 

 

【主体としての危機】

 

“ゆれる やれる 電車もビルもおわりの道具に見えたら

 ぼくも なんか 生きてるだけで 加害者だってわかった”

 

はじめのこのフレーズで、この曲の主人公は “ぼく” だということがわかる。

“ぼく” には電車もビルも、おわりの道具に見えている。おわり、生きてる、加害者、というフレーズが並ぶからか、ここでいう “おわり” は「人生の終わり」を意味しているように思える。つまり、電車もビルも “ぼく” には「死」の道具に見えている。そう考えると、主人公の “ぼく” は、精神的にかなり追い詰められた状態にあるのかもしれない。

道具というのは、なんらかの目的を達成するための手段となるもので、電車であれば「移動」という目的のための手段だし、ビルであれば(中に入っているのが何かにも依るが)、買い物や仕事という目的のための場(手段)である。ところが、そういった本来の目的のためではなく、「死」という目的のための道具に、電車やビルはよく選ばれる。ビルから飛び降りて/突き落として、死ぬ/殺すこともできるし、毎日のように電車は人身事故で死亡者を出している。その物質の作製者に意図はなくとも、ましてやその物質自体(=ビル・電車)に意思はなくとも、周囲からどのような使われ方をするかによって、そのものが持つ意味はまったく変わってきてしまう。

 “ぼく” は、電車やビルがおわりの道具に見えたことで、自分という存在すら、意図せず何かを加害する存在になりうるということに気づく。「電車やビルがどのように使われるか」と同じように、「自分という存在がどのように捉えられるか」によって、存在が持つ意味合いというのは変わってきてしまうからだ。そしてそれは生きている限り続く。なぜなら、生きることは周囲と何かしらの関係を持つことであるから、周囲から自分が「どのように使われるか」=「どのように眼差されるか」という視点と切り離すことができない。自分の立場が加害者になること、予期せず何かを傷つけてしまう可能性からは、逃げられないのだ。「死」というものを意識しながらも、それを自分の加害性に結び付けるという点で、この歌の主人公の繊細さが見え隠れする。

このような文脈で考えた場合、“ゆれる” というのは、電車に揺られている、という意味にも取れる一方、ビルや電車といった物の意味が揺らいでいる、という意味にも取れる。そして意味が揺らぐときは必然、意味づけを行う主体である “ぼく” の存在自体も、危うく揺れている(意味づけを行う主体と意味づけをされる客体のあいだで揺れている)。“やれる” は自殺を「やれる」、誰かを「やれる/殺れる/犯れる」など多くの意味に取れるが、私には繊細さゆえに追い詰められた “ぼく” が、「今なら自殺を “やれる”」とまで感じている光景に映った。

何にせよ主人公の “ぼく” は、著しく主体としての危機に瀕しており、それはSNSの「いいね」数やフォロワー数で自分の価値が決まると感じてしまうような、現代社会の私たちに肉薄してくるようだ。

 

 

【対話範囲の拡張】

 

“野菜や肉 断面をラップ ポカリで全部治りゃしない

 尻拭いをさせられるほうが楽”

 

ここで場面が切り替わる。

“ぼく” の頭の中身か、もしくはもっと俯瞰した、「大森靖子=この作品世界の創造者=神」自身の言葉のようにも聞こえる部分だ。予期せず他者を傷つけてしまう可能性に気づいた前パートを受けて、「じゃあ何かを傷つけた場合どうすればいいのか」ということについて歌われているように思う。

野菜や肉は、切断面(傷ついた面)をラップすることで保存が効く。“ポカリで全部治りゃしない” のくだりで、視点が人間に切り替わる。ポカリは熱を出したときに飲む飲み物、というイメージが私にはあるのだが、ポカリを飲みまくって熱が下がることはあっても、人間がもし野菜や肉のように切断された場合、ポカリで治るのか。いや、治らない。切断面をラップしておけば、保存がある程度できて、問題ないのか。いや、問題ありまくる。当然だ。人間は野菜や肉(素材)ではないのだから。

肉体的な話だけでなく、精神の領域の話であっても、同じことだ。傷つけてしまったものは、ラップやポカリで簡単に保存・復元されるような単純なものではなく、不可逆的なものなのだ。例えば、「お前なんて生きてる価値ない」と言われて、傷ついたとしよう。その後に、「やっぱごめん、さっきの言葉悪かったと思ってる」と言われたとして、その前の言葉をなかったことにできるだろうか。言われた側は傷ついたままかもしれないし、たとえ許せたとして、それは <傷つく→謝られる→許す> という一連のプロセスを経た上での結果だ。「お前なんて生きてる価値ない」という言葉はなかったことにはならない。

しかし残酷なことに私たちは、“生きてるだけで 加害者” なのだ。周囲の人と関わる上で、不可逆的な、簡単には治せないかもしれない傷を与えてしまう可能性を孕んだ生き物なのだ。もちろん、誰かを傷つけないに越したことはないから、私たちは大人になるにしたがって周囲の人間への配慮を学んでいくのだと思うが、“ぼく” が気づいたように「誰も傷つけないで生きる」というのは不可能なのだ。傷つくかどうかは、“ぼく” が決めることではなく “ぼく” の周囲の人間が決めることだからだ。

そうなったとき、作品世界の “ぼく” を含む私たち人間が取れる選択肢は2つだ。(A) 生きることをやめて誰も傷つけない or (B) 誰かを傷つけ続けることを引き受けた上で生きる、の2つに1つ。“尻拭いをさせられる方が楽” という言葉からは、(B) を選んで「傷つけたことの後処理」= “尻拭い” をしていく方がまだマシだという意思が伝わってくるように思える。しかし、言い回し的には尻拭いを「する方が楽」なのではなく、“させられる方が楽” という言葉選びになっている。誰に尻拭いを “させられる” のだろうか。それは、自分が生きているだけで予期せず傷つけてしまった相手から、ということになるのだろうが、ここで注意したいのは、尻拭いすら「させてもらえない」場合がある、ということだ。つまり、実はここで “楽” と言っているのは、「尻拭いをする= (B)」or「尻拭いをしない = (A)」の選択ではなく、(B’) 尻拭いをさせてもらえる=傷つけたことのフォローをする機会をもらえる or (B’’) 尻拭いすらさせてもらえない=傷つけたことのフォローをする機会すらない、の2択のうち、(B’) の方が楽だ、と言っているのである(“ぼく” には、「生きることをやめて誰も傷つけない= (A)」という選択肢は、はなからなかった。電車やビルが “おわりの道具” に見える=死にたくなる/殺したくなることはあっても、“ぼく” は自殺や殺人を選ばない)。

繰り返しになるが、尻拭いをする権利は、傷つけた側が選べるものではなく、傷ついた側が傷つけた側に与えるものなのだ。平たく言えば、「ごめんね」や、「そういう意味で言ったんじゃないんだ。私の意図は○○で~」という言葉を伝える機会をセッティングできるのは傷つけられた側だ、ということだろう。喧嘩したから絶交する、LINEをブロックする、など、対話を拒否する姿勢が (B’’) にあたると思うが、それが予期せずして(生きていることの加害性から)起こったことなら、傷つけた側は確かに楽ではない思いをするだろう。

つまりこの歌では、誰かを傷つけてしまったとしても、その後の対話(関係の継続)を希望する姿勢が取られている。その上で、“もっと 人でなしの感情は心じゃないのか” と歌われる。

 

“もっと 人でなしの感情は心じゃないのか

 ミラクル馬鹿者丸腰”

 

“人でなしの感情” とはなんだろう。

現代では、SNSを通じて人々の心の中がより見えるようになったかのように思える。それぞれが考えることを個人レベルで、しかも匿名で発信することができ、人の心の中を覗き見できてしまえるような気にさえなる。しかし実際、赤裸々に感情のままを綴ったような文章(感情)は忌避されがちで、誰の身にも引っ掛かるような共感されやすい言葉(感情)は拡散しやすく、また自分が嫌悪感を抱くものをわざわざ見ようとする人は稀だから、結果として自分が気持ちいいと感じる、都合の良い世界が自分の手の平のインターネット世界にはできやすい。“人でなしの感情” というのは、そういった自分にとって都合の良い世界の外側にある、自分が嫌悪感を抱いてしまうような思考/感情のことではなかろうか。

尻拭いをさせてもらいたいのに、させてもらえない。その原因は、“人でなし” と思われてしまうくらいに相手にとっては嫌悪感を抱く、相手を傷つけてしまう思考/感情を、自分が持っているからだ(“人でなしの感情” に関しては、大森靖子のアルバム『Kintsugi』の1曲目に収録されている『夕方ミラージュ』や2曲目『えちえちDELETE』で表現されている感情がわかりやすい。子供や夫のために生きないで、自分の自由に生きたいと願う感情や、同居する夫とは別の男性への、性的な欲望をも含んだ愛情が歌われている)。

「生きていることの加害性」を人間が有しているからこそ、対話を必要とするのに、「生きていることの加害性」= “人でなしの感情” を人間が有しているからこそ、対話の機会すら生まれない。この矛盾を解決する方法のひとつとして、“人でなしの感情” を消す、というのが挙げられるだろう。しかし、“ぼく” もしくは「大森靖子=この作品世界の創造者=神」は問う。“人でなしの感情は心じゃないのか” と。もちろん、これは反語だ。「心じゃないのか」、「いや、心だ」。

その上で、“もっと” とも言っている。矛盾の解決策はもうひとつあって、“人でなしの感情” を人間の一部として、認めることだ。嫌悪感すら抱いてしまう他者の(もしくは自分の可能性もあるかもしれない)心を、野菜や肉のように切って焼いて調理できる素材として扱うのではなく、不可逆的に移ろっていく「心」としてきちんと捉えて、尻拭い=対話のフィールドに持っていける範囲をもっともっと広げるのだ。

以上を踏まえた上で、“ミラクル馬鹿者丸腰” という、一見すると意味不明な言葉について考えてみる。すべて違う言葉で言い換えてみると、「奇跡」の「愚か者」が「武器を何ひとつ持っていない」となる。“馬鹿者” というのが一番解釈しやすいだろうか、「“人でなしの感情” を認められない愚か者」という意味に取れる。“馬鹿者” は否定的な言葉だが、それと並ぶことでより肯定的な言葉にも見える “ミラクル” はそうすると、「“人でなしの感情” を生まれつき持ちながらも、それを認めることができる奇跡」という解釈ができる。最後に、ミラクルな馬鹿者が “丸腰” =「武器を何ひとつ持っていない」とはどういうことだろう。武器は他者を攻撃するためのものであり、「武器を持っている」相手とは対話をすることは不可能だ。なぜなら「武器を持っている」時点で、それは対話ではなく脅迫になるからだ。その「武器を持っていない」ことを “丸腰” と表現しているのであれば、“丸腰” とは「対話をする余地のある状態」と捉えられる。

そう考えると、“ミラクル馬鹿者丸腰” は正反対の意味を持つ言葉が3つ交互に並んだ言葉である。 “ミラクル馬鹿者” + “丸腰” とすれば、「人間は “人でなしの感情” を持ちつつもそれを認められる奇跡を持った素晴らしい存在であるのに、それを認めないのは愚か者だ。しかしそんな愚か者に対しても対話の余地はある」となるし、“ミラクル” + “馬鹿者丸腰” とすれば、「“人でなしの感情” を認められない愚か者であっても、対話の余地があるというのは奇跡のようだ」となる。少々ニュアンスの違いはあるが、大意は変わらない。

“野菜や肉” から始まるこの一節の主語は判然としないが、仮に “ぼく” の頭の中の言葉だと考えた場合、“ミラクル馬鹿者” は誰なのだろう。そしてなぜ “丸腰” だと思うのだろう。ありうるのは、“ミラクル馬鹿者” =「“ぼく” 自身」の場合と、“ミラクル馬鹿者” =「“ぼく” から見た他者 ≒ 社会」の場合である。“ぼく” は、先ほど示したように対話(関係の継続)を希望する姿勢をとっていることから、この場合の “ミラクル馬鹿者” は「“ぼく” から見た他者 ≒ 社会」の可能性が高い。“ぼく” が死を意識するほど追いつめられているのは、他者や社会が “人でなしの感情” を認めてくれないからだ。

しかし逆説的ではあるが、“ぼく” が他者を “馬鹿者” と見なしている限り、“ぼく” 自身もまた “馬鹿者” である。「認めてくれない」相手を認めていないのだから。とどの詰まり、 “ぼく” が死を意識するほど追いつめられているのは、他者から見られる存在(=客体)である “ぼく” が他者から “馬鹿者” だと感じられていることの絶望からであり、他者を見つめる存在(=主体)である “ぼく” が他者を “馬鹿者” だと感じる絶望からでもある。

人間である限り皆平等に “ミラクル” であり、“馬鹿者” であり、“丸腰” なのだが、その絶望と希望が入り混じった “ぼく” の複雑な感情がこの “ミラクル馬鹿者丸腰” という言葉に表れている。そう考えると、先ほど反語として捉えた “もっと 人でなしの感情は心じゃないのか” というフレーズが、「人でなしの感情も心なんだ」などの断定的な言い方でないのは、そこまで希望側に振り切れるほどの自分 or 社会になっていないからだろう。そして “心じゃないのか” という投げかけの形になっていることは、認めてくれない社会に対して「客体」としての自分の意識が色濃く出た結果だと言える。

 

 

【異質性の肯定のための戦い】

 

“生きさせて 息させて 遺棄させて

 なんなら抱いてもいいから”

 

“生きさせて 息させて” というのはすごいフレーズだと思う。「息をする」というほぼ無意識に行っている行為すらも、ここでは誰かの許可を取ろうとしている。“ぼく” はここに至って完全に主体性を放棄したように思える。なぜだろう。

それは、「生きたいから」ではないだろうか。先ほど考察したように、“ぼく” には “人でなしの感情” を殺すことで生きる、という選択肢はない。それでも周囲の “人でなしの感情” を認めない “馬鹿者” と共存して生きるためには、“人でなしの感情” を殺さないまでも、不用意に見せず、隠し、懇願するしかない。主体的であることはすなわち、周囲の “馬鹿者” = 社会に抹殺されることを意味する。“馬鹿者” は “人でなしの感情” を認めないからだ。“尻拭いをさせられるほうが楽” のフレーズで考察したように、尻拭いをさせてもらう=傷つけたことのフォローをする機会をもらうために、ここで “ぼく” は受動的であることに徹している。

その上で、“遺棄させて” という言葉が出る。遺棄というのは、捨てて置き去りにすることであるが、よく使われるのは「死体遺棄」という言葉だ。文脈で考えれば “ぼく” が遺棄するのは「主体性を持った自分」だろう。「主体性を持った自分」を死んだとみなして遺棄することで、“ぼく” は生きようとしている。

また、のちに “刺さる” や “バラバラ殺歌”(バラバラ殺人を連想させる)という言葉が出てくるが、“遺棄させて” はこれらの言葉とも親和性が高い。バラバラ殺歌に刺されて死んでしまった人を “遺棄させて” ということでもあるのだろうが、これについては後述する。

このように徹底的に主体性を放棄した “ぼく” であるが、なんと “なんなら抱いてもいい” とまで言っている。「ぼく」という一人称を使うのは、男性の場合が多いように思うが、“ぼく” は “抱いてもいい”、つまり「抱かれてもいい」と言っている。「男性が抱かれる」というのは物質的な意味でもちろんありうるが、この歌をここでは「主体性に関する歌」として考察しているから、この表現は比喩として捉えることにする(女性である大森靖子が歌詞の主人公と一定の距離をとるために、「わたし」ではなくあえて「ぼく」にしたとも考えられる)。

“抱いてもいい” =「抱かれてもいい」という表現は、「抱き合ってもいい」などとは違い、どこか一方的なニュアンスを感じる。この場合の「抱く」という行為を、「欲望をぶつける」という行為だと解釈すると、“抱いてもいい” =「相手の欲望の好きなようにしていい」という意味になる。「相手の欲望」の中にはもちろん “人でなしの感情” も含まれているわけだから、“ぼく” は「抱かれる」ことで確実に傷つくだろう。“ぼく” は “馬鹿者” に自分の感情は認められなくとも、“馬鹿者” の感情は傷ついてでも否定せずにいようとしているのだ。それは、“馬鹿者” が自分と同様に “ミラクル” で “丸腰” だからにほかならないだろう。

 

“狂わせて 狂わせて 狂ってたら

 入場できない?むしろ割引けよ”

 

ここでも、やはり “ぼく” は主体性を放棄したまま懇願している。しかし、内容は「生きる」「息する」「遺棄する」とは少し異質で、「狂う」ということに関してだ。「狂う」というのは「正常ではなくなる」ことだが、ここでいう「正常」というのは、“馬鹿者” 側の正常、つまり “人でなしの感情” を認めない側の常識に従うということだろう。“ぼく” は主体性を放棄し、“馬鹿者” にお願いする形をとってはいるものの、その実は “人でなしの感情” を認めるように働きかけている。そして、狂人側であることで “入場できない” ことに疑問を呈し、むしろ狂人であることが優遇されるように強めの語気で主張している。 “割引け” と言っていることから、“入場” するためには入場料を支払う必要があることがわかるが、そもそも “ぼく” はどこへ “入場” しようとしているのか。狂っていたら、入れてもらえない正常側の領域。それはまさに「対話のフィールド」ではないか。狂っている=人でなしの感情を持っていると、相手によっては話を聞きいれられない、という話は上述した通りだ。しかしなんと、“ぼく” は “割引け” と言っている。つまりこれは、「正常」同士であっても「対話のフィールド」に入るのには入場料がかかる(対話をしようと思ってもらう必要がある)のに、「狂人」=異質な存在であればより一層「対話のフィールド」に入りやすくならなければおかしい、と言っているのである。“ぼく” は異質性を肯定し、同質なもの同士ばかりが対話することへの疑問を投げかけている。

 

“お前に刺さる歌なんかは

 絶対かきたくないんだ

 人違いバラバラ殺歌

 シンガーソングライター”

 

ここにきて初めて、歌詞にはっきりとした “ぼく” 以外の人間 “お前” が登場する。そして “歌” や “シンガーソングライター” という、作品の外側にある現実世界とリンクする単語が出てくることで、<“ぼく” と 大森靖子> の距離がほかの箇所よりも近づいて見えるようになる。同時に、<“お前” と 聞き手> との距離も近づくような感覚になるかもしれない。

“ぼく” は “お前に刺さる歌なんかは絶対かきたくない”という。ここでいう “刺さる” とは、どういう意味だろう。

“刺さる” は「心ない言葉が胸に刺さる」など、「傷つく」というニュアンスで使われる場合もあるが、最近では「感動・共感する。心に深く届く」という意味で使われることが、特に若者のあいだで増えている。この意味で使われる場合 “刺さる” は、まったく理解の及ばないことに対しては通常使われない。ある程度自分が共感し、納得した上で、心に “刺さる” のだ。そこには自分と同質なものに対する感動、というニュアンスが含まれる。“ぼく” は、狂っている人=自分とは異質な人との対話を奨励しているわけだから、“お前に刺さる歌なんかは 絶対かきたくないんだ” というのは、「お前を傷つける歌をかきたくない」ということではなく、「お前が同質だと感じ、共感するような歌なんかはかきたくない」という意味に解釈できると思う。これはつまり、「“ぼく” は “お前” とは異質でいたい」という意思表明である。

“人違いバラバラ殺歌” というのもまたすごい言葉だ。これは「バラバラ殺人」をもじった言葉だろうが、この歌の主人公が “かきたくない” と言っている “刺さる歌” と同義だと考えられる。“バラバラ殺歌” が殺すのは、歌が刺さってしまった人、つまり歌に同質性を見出して共感し、感動した人だが、その人は “バラバラ” にされるのに、そもそも “人違い” であり、先ほど言及したように “ぼく” にとっては “遺棄” したい対象でもある。“ぼく” は “お前に刺さる歌なんかは 絶対かきたくない” と言っているのだから、殺されたのは “お前” ではなく別の誰かということになる。

ここで考えたいのは、この歌において “殺”すとは、どういう意味なのかということだ。これについては歌詞の後半に答えが出ていて、“共感こそ些細な感情を無視して殺すから” というフレーズが出てくる。つまり “殺”すとは、「無視してなかったことにする」ことである。そしてこの歌において “殺”す手段は、共感することだと言っている。たとえばある同じ映画に関して、Aさんは「映画に通底する不穏な空気が好き」だと思っていて、Bさんは「出演者がことごとく好きな俳優だから好き」だと思っていた場合。ふたりが「この映画好き」「わかるわかる。共感する」という話をすると、たしかにふたりの考えの違いは捨象される。これを踏まえて考えると、“ぼく” が「お前に刺さる歌を絶対かきたくない」のは、「“お前” の些細な感情や思考を絶対に無視したくない」からなのだということがわかる。これは、“人でなしの感情” をなかったことにせず、心の一部なのだと認めようとする先の姿勢に重なる部分がある。異質性を重んじる “ぼく” は、簡単に「わかるわかる」と言って共感することで微妙なニュアンスの違いがなくされることに反対している。

異質な “お前” と対話したい “ぼく” にとって、自分のかいた歌が刺さってしまう(共感されてしまう)のは対話を行いたい “お前” ではなく、同質性を求めている別の誰かである。だからこそ “人違い” の歌になってしまう。これは、電車が移動の道具ではなくて死の道具になってしまうように、傷つけようとしていなくても周囲からの捉えられ方で加害者になってしまうように、別の意図を持っていても “人違いバラバラ殺歌” になってしまうというジレンマである。“ぼく” は決して人間を “野菜や肉” のように素材としては扱っていないのに、歌が “些細な感情” を殺して共感されるとき、感情は素材化(“バラバラ” に)され、誰かとわかりあうためのツールに成り下がる。特に、同質性を求める正常な(狂っていない)人= “馬鹿者” ばかりの社会においては、どんな意図をもって作った歌であっても “人違いバラバラ殺歌” として消費されていってしまう。「バラバラ殺人」に凄惨さや憤りを感じるのは、人間という命を宿した存在を、ただの肉塊として、素材として扱うところに、命への冒涜や侮辱を感じるからではないだろうか。歌が “人違いバラバラ殺歌” になるとき、人間という生命に宿っているはずの感情は、まるでバラバラ殺人のように素材化され、誰にでもわかりやすいものに変わる。それはまるで、SNSにおける「いいね」のようなものだ。微妙なニュアンスの違いを想像する余地も与えないほど簡略化され、感情は数値化される。

ところでこの歌の曲名は、“シンガーソングライター” だが、この歌を歌う大森靖子は「シンガーソングライター」ではなく「超歌手」と名乗っている。なぜだろう。またもや歌詞を先取りしてしまうが、後半の歌詞に “全てわかったと酔っている歌歌歌歌” というフレーズがある。“歌歌歌歌” と “歌” を4回も繰り返しているのは、世の中にそういう歌が溢れかえっている、そのような歌ばかりだ、という意味に感じるが、どのような歌が溢れかえっているかというと、“全てわかったと酔っている歌” だ。“全てわかった” は言い換えれば「わからないことなどない」ということになる。「わからないこと」=「自分とは異質なこと」である。歌に共感するのは聞き手側の話であるが、歌い手(もしくは作り手)側が共感=同質性を求める “馬鹿者” だった場合、どのような歌をかくかというと、「なるべく異質性(“人でなしの感情”)を排除した歌」=「わからないことなどないと歌う歌」= “全てわかったと酔っている歌” ということになるのだろう。そしてこれは、“刺さる歌” = “人違いバラバラ殺歌” が指すものと一致している。しかし、どのような歌であったとしても、歌を作り歌うのであれば「シンガーソングライター」であるし、“ぼく” のようにそのような歌を “絶対かきたくないんだ” と豪語していても、周囲から見れば同じ「シンガーソングライター」である。つまり「眼差される存在」=「客体」である限り、曲を書いて歌っている人はすべて同じ「シンガーソングライター」であり、逆に言えば「シンガーソングライター」は客体として象徴的な名称だともいえる。大森靖子が「超歌手」を名乗るのは、同質性を求める歌はかかないし、眼差されるだけの存在ではない、私は客体である前に主体(時々刻々と変化し続ける存在)であるのだ、ということを表現するためなのではないかと思う。

曲は作品であるから歌詞の主人公 “ぼく” が人間としての大森靖子自身と一体であるはずはない。一方で生身の人間である大森靖子がかいた歌詞であるから、歌詞が内的な意味でノンフィクションたりうるのは当然の話だ。その上で、ここではこの歌の主人公 “ぼく” を、あえて大森靖子から切り離して考えることにして、歌詞の解釈をまとめてみる。“ぼく” は “生きさせて 息させて 遺棄させて” と主体性を持った自分を捨て去り(遺棄し)、“バラバラ殺歌” に刺されて死んでしまった人を切り捨て(遺棄し)、ときに相手の欲望を傷つきながらも受け入れ(“なんなら抱いてもいいから”)、そうまでして生きて、息して、そうやって狂うこと=他者と異質であることを諦めずにいる(“狂わせて 狂わせて 狂ってたら 入場できない?むしろ割引けよ”)。そうして作られる歌は、かかれる段階では共感や同質性を他者に要求していないのに(“お前に刺さる歌なんかは 絶対かきたくないんだ”)、他者に聞かれる段階ではそこをコントロールすることはできない(“人違いバラバラ殺歌 シンガーソングライター”)。

このような流れで歌詞の1番までを解釈してみると、「結局 “馬鹿者” をコントロールすることはできず、客体として存在することからは逃れられない」という、ちょっと救いのない歌詞にも思われるが、この歌が歌われること自体が歌詞への一種のアンサーになっている。表現する、というのは、主体的な行為にほかならないからだ。

 

 

【美しいという価値観の提示】

 

“human rights, beautiful, 目と鼻と口

 台風一過の朝凪

 死んでもいい幸せなんて せいぜいコンマ1秒”

 

ここからは、1番の歌詞を踏まえた上で2番の歌詞考察を行う。

“human rights” とは人権のことであり、人権とは、文部科学省のHPによれば、『人々が生存と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利』のことである。まさに “ぼく” の抱えている問題は人権の問題である。生存を確保するためには、ろくでなしの感情を抱えた状態の “ぼく” は、「生きさせて」と周囲に懇願しなければならなかったし、自由を確保するために、「狂わせて」と訴えなければいけなかった。“ぼく” は人権を獲得するために戦っている。人権というのは周囲から認められなければ獲得できるものではなく、自分ひとりで、「俺は誰になんて言われようと、勝手に生きるし息するし狂う」と言って得られるものではない(迫害や差別について考えればそれは明らかだ)。しかし同時に、そもそも人権というのは、どんな人でも人間であれば皆無条件で持っている権利であるはずだ。

1番の歌詞を踏まえて、“human rights” =「人権」とは何かを考えると、「“人でなしの感情” を持ち合わせていたとしても社会から抹殺されることがなく、異質なもの同士の対話を自由に行うことができるという前提の上で、それぞれの幸福を追求する権利」ということになるだろう。この「人権」が当たり前に認められた理想の社会においては、皆が同質ではなく、むしろ全員が全員それぞれに異質であるからして、「幸福」の形も人それぞれであるはずで、まさに「それぞれの」異なる幸福を追求していくことが可能である。

歌詞ではそのような「人権」= “human rights” と並列する形で、“beautiful” そして “目と鼻と口” が挙げられている。この歌の価値観の中では、「人権」と「美しい」と「目と鼻と口」は同じようなもの、として描かれているように感じる。“目と鼻と口” は人間にはほとんど当たり前のように具わっているもの、という印象があるが、「人権」もそれと同じくらい当然に具わっており、人間というのは当然に「美しい」ものだ、という価値観がここで提示されているのだと読める(断っておくが、この価値観においては、例えば目や鼻や口を持たない人であっても、人間であれば当たり前に美しい)。

同時に、“目と鼻と口” は「人権」と同じくらい「美しい」というようにも読める。注意すべきは、この部分の歌詞では “目と鼻と口” の「形」や「配置」について言及されていないということだ。“整形” という言葉がのちのパートの歌詞で出てくるのだが、“目と鼻と口” というのは、現代社会では「美しさ」の基準として扱われる頻度の非常に高い部位である。目や鼻や口や眉や顔の輪郭や腕・足の長さなど、その人間の美醜や価値を見た目に依って判断するのが『ルッキズム』だが、ここで示される態度はそれとは真逆だ。“目と鼻と口” という「感覚器官をただ列挙しました」風の歌詞(顔の造形について一切触れないが顔にあるものを並べる描写)は、「人権」が “目と鼻と口” と同じくらい当たり前に存在しているものである、ということだけでなく、“目と鼻と口” がそこにあるだけで、その配置に関係なく「美しい」ことなのだ、という意味にも受け取れるのだ。しかし、“ぼく” が実際に生きているのはそのような <美しい社会> ではなく、<現実の社会> である。

続く歌詞である “台風一過の朝凪” は、そんな <現実の社会> の中にいても感じる美しい瞬間のことなのではないか、と私は感じている。“台風一過” とは、「台風が過ぎた後に天気が回復すること」の意味もあるが、ここでは比喩的に、「騒動が収まって晴れ晴れとすること」の意味だと思う(ここでいう「騒動」が何を指すかについては後述)。また “朝凪” は、「朝方、陸風から海風へ切り替わるときの無風状態」のことであるから、“台風一過の朝凪” というのは、台風があったり陸風が吹きすさんだりして荒れていた状態=「騒動」が収まった後の、晴れ晴れとした平穏な時間のことである。「夕凪」ではなく「朝凪」なのは、これは完全にイメージの問題だが、「夕凪」が夜の訪れる前の一瞬の静けさで、どことなく寂しさを感じる時間帯に思える一方、“朝凪” はこれから太陽が高く昇っていく希望に満ちた静けさで、清々しさを感じる時間帯だからかもしれない。朝凪も夕凪も夏の季語であり、「朝凪」は日中のうだるような暑さからはまだほど遠いが、そのような暑さが来ることを予感させる言葉でもある。また、当然だが朝凪の後には海風が吹く。つまり “台風一過の朝凪” というのは、台風や陸風などで暗喩された「騒動」の直後の穏やかな時間、であると同時に、この後訪れる新たな「騒動」(海風や夏の暑さ)を予感させる、その直前の穏やかな時間、として描かれていることがわかる。

そして続くのが、“死んでもいい幸せなんて せいぜいコンマ1秒” というフレーズである。“死んでもいい幸せ” というのは、「これ以上ない幸せ」「幸福過ぎて、それ以上に幸福を追求する必要のない状態」という風に言い換えることができるかと思う。“human rights” が「それぞれの幸福を追求する権利」であることを踏まえると、“死んでもいい幸せ” =「人権など考える必要もない状態」ということになる。そしてそんな状態は、“せいぜいコンマ1秒” なのだ。認識できるかできないかの狭間の、本当の一瞬しかそんな状態は存在しない。その “コンマ1秒” が生じる前後の長い長い時間は、「人権」について考え、「人権」が確保されるように戦い続けなければいけない時間なのだ。“台風一過の朝凪” もその “コンマ1秒” と同義だと解釈すると、先ほど言及した “朝凪” の前後に起こっている「騒動」とは、<現実の社会> で「人権」を確保するための戦いの時間のことではないだろうか。“ぼく” にとっては “馬鹿者” に “狂わせて” と懇願する時間であり、“割引けよ” と詰め寄る時間であり、「超歌手」の大森靖子にとっては、この歌を歌う時間である。

 

 

【客体としての危機】

 

“選択肢なくて パパ活で整形

 奴隷なの誤魔化してる”

 

上述した通り、“human rights” =「人権」の確保された <美しい社会> では、“目と鼻と口” があることや人間であることそれだけで「美しい」。“整形” を行うとき、人は「目や鼻や口」の形を文字通り整えるわけだが、整える際の基準となる「美」とは、そもそもどこにあるのだろう。主体が自身のことを、「美しくない」「顔を変えればもっと美しくなれる」と思うから “整形” は行われることが多いと思う(そうでない場合もあるだろうが)。しかし、そもそも自身のことを「美しくない」「顔を変えればもっと美しくなれる」と思わせたものはなんだろう。“ポカリで全部治りゃしない” 肉体や心を持ち合わせている “ぼく” は、整形を行うとき、“断面をラップ” する “野菜や肉” のように、その肉体を素材化する。顔面はあたかも福笑いの素地で、「美しい」とされる目の形、鼻の形、口の形、それらの配置のバランスによって画一的な「美」へと収斂されていく。それは “目と鼻と口” があるだけでは “beautiful” だとは認めない、まさに <現実の社会> が「美」を決めているということではないだろうか。<現実の社会> を構成しているのは、他者の異質性を認めない “馬鹿者” であるから、“整形” を行うというのは、“馬鹿者” 側の基準=「正常」な基準= <現実の社会> の基準に、“ぼく” の「美しさ」の尺度を明け渡すということに繋がる。それは “ぼく” が主体としてではなく、客体として生きる、ということだ(整形には、他者に「美しさ」の価値観を明け渡すのではなく、自分の価値観に沿って自分の「美しさ」を追求するという場合もあるかもしれない。この点については、大森靖子の『GIRL’S GIRL』という曲を参照されたし)。

“生きさせて” “狂わせて” と叫ぶとき、“ぼく” は主体性を完全に放棄して客体となったが、それは「異質性を認めない社会」= <現実の社会> に抗うために、「主体的に」主体性を放棄する、とでもいうべき積極性があった。しかし今回はどうだろう。“選択肢なくて” という言葉からは、“整形” しない余裕はないほど、<現実の社会> に主導権を握られている様子が垣間見える。そう、2番では「主体的に」主体性を放棄する選択肢などもはや “ぼく” に残されておらず、“ぼく” は客体であることを選ばざるを得ないのだ。状況は悪化している。“生きさせて” と懇願するだけでは、“ぼく” はもう生きることができないのだ。 <現実の社会> から排除されないために、対話という手段を捨てて <現実の社会> が唱える美しさの尺度に沿って、“整形” をするしそのためのお金は “パパ活” で稼ぐ。そこに主体性は介在しない。

パパ活” という言葉がここで出てくるのが大森靖子のまたなんともすごいところだと思う。 “パパ活” とは、『経済的に余裕のある男性と一緒の時間を過ごし対価として金銭を得る活動のこと』で、いわゆる「援交」(援助交際)や「売春」という言葉に非常に近しいが、ポップな言葉である分、私の実感としては昔よりも非常にライトな感じで使われている印象がある。実際、「売春」という言葉は明確に「性行為」を連想させるが、パパ活であれば、「一緒にご飯を食べるだけ」「遊園地に行って遊ぶだけ」など、よりライトな行為も含む。しかしそこに表面的な違いこそあれ、「金銭を欲している女性」と「女性とともに過ごす時間を買いたい男性」が互いの需要と供給により結びついている、という実質的な部分ではあまり違いがないように思う。そこには明確に「買う」「買われる」の力関係が発生しており、「買われる」側の女性にとっては、「どのように眼差されるか」という客体としての振る舞いを「買う」側の男性に提供する構造が生まれる。

“奴隷なの誤魔化してる” という歌詞は、“奴隷” という言葉の強さに一瞬ぎょっとするが、奴隷という言葉の意味を、「主体性を徹底的に排して、客体という側面しか持たない人間」だとするなら、非常に適切に状況を言い表していることがわかる。パパ活をすることは、構造としてはパパの「客体」になることであるし(「パパの求めるものをこちらの意思とは関係なく提供する」という構造)、さらに言えば、資本主義という仕組みの「客体」になることでもある(「金銭の余裕のある者に自分の意思を抑えて付き従う」という構造)。そうして得られた金銭は、<現実の社会> が求めてくる「美」の基準に沿わせるために整形費用として消えていく。より客体化されるために客体になる、という循環が生じている。

そもそも “奴隷” というのはなんなのだろう。奴隷には人権もないし、尊厳もない。奴隷というのは、人間の形をした道具である。道具に人格があっては困るように、“奴隷” はただ人の形をした肉塊=道具であり、その道具を使う側にとっては単に都合の良い素材でしかない(歌の冒頭に表れた「電車」や「ビル」のように)。つまり、人間が究極的に客体化された姿が “奴隷” なのだ。“人でなしの感情” を抱きながらも人としての尊厳を失おうとしなかったこの歌の主人公、“ぼく” にとって、しかしそのように “奴隷” であることは到底受け入れがたいはずだ。“奴隷なの誤魔化してる” と描写されているのは、“パパ活” も “整形” も <現実の社会> の “奴隷” と化した結果であることを “ぼく” が直視しないようにしている、ということだろう。「援助交際」ではなく “パパ活” というポップな言葉を使用することでその本質は見えにくくなるし、“整形” というより美しくなる行為は自分の尊厳を保つことにも繋がるため、社会が突きつけてくる「美」の基準に沿う行為であるという本質も巧妙に隠蔽される。“選択肢なくて” の部分の “選択肢” という言葉は、表面的には “パパ活” をする or しない、もしくは “整形” をする or しない、という意味だが、踏み込んで考えれば、それは「客体 or 主体の “選択肢” 」=「奴隷 or 奴隷でないという “選択肢” 」なのだ。そして <現実の社会> で生存するためには、選ぶ余地なく “ぼく” は “奴隷” でいなければならない。

1番の歌詞では、“人でなしの感情” という他者からは見られ得ない部分についてフォーカスを当てていたが、2番の歌詞では「外見」や「金銭」という、生活する上で他者や社会から隠しようもない部分にフォーカスを当てており、より一層 <現実の社会> で主体として生きることの困難さを浮き彫りにしている。

 

“所詮歴史がぼくをつくっただけなの

 どうして美しくないのかな

 正義の面こそ 知らぬが仏レイシスト

 

“歴史” という言葉が、少し唐突なようにも感じられるこの一節。“所詮” という枕詞が付くことで、“歴史がぼくをつくった” ということを、“ぼく” はあまり肯定的に捉えていないことがわかる。その後に “どうして美しくないのかな” と続くことから、「歴史がつくったぼくは美しくない」という意味に読み取れる。

先ほどから私は、考察するにあたって「美しい」「美」「美しさ」という言葉を多用しているが、実は歌詞の中に出てくる「美しい」を表す単語は、このパートの “どうして美しくないのかな” と、“human rights” に並ぶ “beautiful” だけである。歌詞を遡ってしまうが、どうしてこの部分は日本語の「美しい」でなく、英語の “beautiful” で書かれているのだろう。“beautiful” の部分は、人間が人間であるだけで具えている絶対的な「美しさ」、生命そのものが絶対的に「美しい」ということを表す言葉であり、この “beautiful” が否定される(「美しくない」とされる)場面は、人間が人間として扱われない場面(生命が素材化される場面)であろう。

本題に戻って、“歴史がつくったぼく” は “どうして美しくない” のだろうか。“奴隷” という言葉が先ほど出てきたが、人類の歴史には「奴隷制度」も登場すれば「人種差別」も登場する(すぐ後の歌詞には “レイシスト” という言葉が登場する)。人類の歴史はそれぞれの人間が「人権」を獲得していく歴史であり、他者や社会からどのような役割や呪いを付与され、そこからどのように自由になってきたかの歴史でもある。女性はほんの少し前まで政治に参加する自由を持っていなかったし、黒人は現在でも「BLM」に表れているように日常生活で生命が脅かされる場面に遭遇することがある。今を生きる私たちは、そのような歴史の最先端を生きているのであって、歌に登場する “ぼく” もそうだろう。では、フェミニストが女性の権利を獲得してきた歴史があるから、女性は権利を持っているのだろうか。人種差別撤廃条約を結んだから黒人には人権が認められるようになったのだろうか。LGBTQの活動家たちが様々な活動を行ってきたからセクシュアルマイノリティにも人としての尊厳が認められるようになってきたのだろうか。歴史が外から与える自由を人間にもたらしてきた結果、“ぼく” は「人権」を獲得できたのだろうか。

この歌の歌詞に基づいてこの疑問を考えるとするならば、答えは「NO」になるのではないだろうか。つまり、「人権を認める歴史があったおかげで、“ぼく” は人権を持っている」というわけではない、ということだ。この考察を読んでいる方が、「いやいや、そんなことはない。歌詞に “所詮歴史がぼくをつくっただけなの” と明確に書かれているではないか!」と考えるとしたら、それはごもっともである。“奴隷なの誤魔化してる” からの流れを汲むと、「結局のところ、歴史が “ぼく” の人権を確保しているだけであって、“ぼく” に元から生存や自由が確保されていたわけではない。“ぼく” は客体でしかない奴隷なのだから」ということになるだろう。しかしそんな風に「歴史がつくったぼく」のことを、“ぼく” は「美しくない」と思うのである。なぜなら、それは歴史の “奴隷” になっているから。“奴隷” になること、人間の感情や思考や肉体を素材化して道具として扱うことは、“human rights” =「人権」が “beautiful” であるとされる <美しい社会> とはかけ離れている。主体であることとも、客体であることともまったく関係ない地点で人間には「人権」が具わっており「美しい」のである。したがって、歴史が外から与える自由を人間にもたらしてきた結果、“ぼく” は「人権」を獲得できたのではなく、そもそも、歴史なんかとはまったく関係なく “ぼく” には「人権」が具わっているのであり、「美しさ」も具わっているのだ、というのがこの歌におけるスタンスだろうと考えられる。そのような解釈に基づくと、“所詮歴史がぼくをつくっただけなの” というフレーズは、断定した諦めの表現にも思える一方、「つくっただけなの?」と最後に疑問符が隠れているようにも読める。

ここで、話を複雑にしてしまうかもしれないのだが、“どうして美しくないのかな” というフレーズを、そもそも今回は下記の①の解釈にて考察したが、実際には3パターンの読み取り方があると思う。

 

 ①どうして(ぼくは)(ぼくの基準では)美しくないのかな

 → 客体(奴隷)だから美しくない

 ②どうして(社会は)(ぼくの基準では)美しくないのかな

 → 人を客体として扱うような社会だから

 ③どうして(ぼくは)(社会の基準では)美しくないのかな

 → 社会の基準に沿えるほどぼくは正常ではないし異質だから

 

どの解釈を取るにしても、“ぼく” の美しさの基準(客体であることは美しくない)と <現実の社会> の美しさの基準(客体であることで美しくいられる)の相容れなさが原因で「美しくない」という結論に至っていることがわかる。

では、客体であることで美しくいられる <現実の社会> を <現実の社会> たらしめているものとは、なんなのだろう。どうして “馬鹿者” は、“人でなしの感情” を認めないで、異質なものとは対話しようとすらしないのだろう。“どうして美しくないのかな” はここにきて上記②の色合いを帯び始める。どうして社会は美しくないのか、人を客体として扱うような社会は、どうして生まれるのか。

2番のサビ前最後のフレーズ “正義の面こそ 知らぬが仏レイシスト” は、<現実の社会> をそのような「人権」を軽んじる社会たらしめている正体に言及している一節である。一見すると正常で真っ当にも見える “正義の面こそ” が、<現実の社会> を美しくなくす正体である “知らぬが仏レイシスト” なのだ、と言っているのである。

「正義」という言葉の意味を調べると、『人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値』と出てくる。つまり、正義というのは通常は善いもの、価値あるものと見なされているのだ。しかし歌詞では「正義こそ」とは言っていない。“正義の面こそ” と言っている。正義の仮面を被っているだけで、その仮面の下は “知らぬが仏レイシスト” なのである。さらに語義に遡って考察を進めよう。“知らぬが仏” は、『知れば腹が立ったり悩んだりするようなことでも、知らなければ平静な心でいられるということのたとえ。また、本人だけが知らずに澄ましているさまを、あざけって言うことば』である。ここで言う、『知れば腹が立ったり悩んだりするようなこと』とは、まさに “人でなしの感情” のことではないだろうか。“人でなしの感情” はたしかにその定義からして、一見して嫌悪感や不快感を催すものである。しかしそれを無視し、表面的には綺麗に体裁を整えることが本当に “正義” になりうるだろうか。“人でなしの感情” をなかったことにするのは、価値あることだろうか。

「炎上」という言葉がこんなにも普及したのは、ここ10年前後の話だと思う。SNSを中心に、会ったこともない人間のあれこれを知ることがインターネット上で非常に容易になった。それに伴って、「許容範囲外だ」「気持ち悪い」「許せない」と感じたものには、匿名でどんな言葉も投げられるようになった。「許容範囲外だ」と感じた人が多ければ、石を投げるように暴力的な言葉を投げる人の数も増え、俗に言う「炎上」状態になる。炎上しているとき、その対象に否定的な言葉を投げるのは非常に気持ちがいい。それは「正義」だからだ。石を投げる人間は、石を投げる者同士で連帯する。無言で肯定し合うことができるのだ。「ぼくたち正しいことをしているよね」「あなたは正しい」「あなたも正しいよ」と、「正義」という大義名分の下で、その肯定感はどんどん高まっていく。炎もどんどん大きくなる。匿名という分厚い壁に守られたまま。「個」は「個」でなくなり、「集団」になっていく。「映画に通底する不穏な空気が好き」と思ったAさんと、「出演者がことごとく好きな俳優だから好き」だと思ったBさんが、「この映画好き」「わかるわかる。共感する」と会話してふたりの考えの違いが捨象されたように、「あいつのやったことって許せないよね」「わかるわかる。共感する」と言って、石を投げる人々は一体感を得る。「どうして許せないのか」「どうして気持ち悪いと思うのか」そのような詳細は語られない。そこで「対話」は行われないからだ。なぜなら、石を投げる人間は対話など求めておらず、インスタントな共感によって肯定感や自信を得たいと思っているだけだからだ。

このようにして同質を求める “馬鹿者” が集まった、<現実の社会> が維持される。「炎上した者」=「正常ではない狂った人間」は遠慮なく排除し、自らは炎上しないよう、正常の範囲に留まれるように「努力する」=「客体であるよう努める」。

「炎上」という言葉と同様に、「生きづらい」という言葉も、ここ10年前後でよく耳にするようになったと思う。「炎上」という現象に端的に表れているように、社会が決めた線引きから外にはみ出してはいけない、という傾向が顕著になったのだろう。ここ10年で人間が持つ「生きづらさ」や、「正義の名のもとに連帯する傾向」が増大したとは私は思わないが、それがより可視化されやすい時代になったのは明らかだろう。

レイシスト” は「(人種)差別主義者」の意味であるが、「差別」とはそもそも、特定の属性を持つ人間に対して、その属性を理由に不当な扱いを行うことだと思う。つまり、ある一個人と相対したときに、その人間の全体を見るのではなく、ひとつの属性を必要以上に拡大してその属性へのフィルター(偏見)を通してその一個人を見る、ということである。つまり「差別」の本質には、「個」を「個」として認識せず、「その個人が持つ属性」≒「集団」として人間を認識してしまう、という構造があるように思う。実際には、「集団」は「個」の集まりであって、「集団」というひとつの塊ではない。

ひとりの人間が、ほかの人間とまったく同じであるということが、ありうるだろうか。遺伝子、育ってきた環境、人間関係、その人が辿って来た人生、そういったものが全部違うのだから、人が皆違うのは当たり前である。となれば、「許容範囲外だ」「気持ち悪い」「許せない」と思うことの線引きも、人によって異なるはずで、誰にとっても、「許容範囲内だ」と思われるようなことしか思わない、話さない、行わない人などいるはずがない。“人でなしの感情” を抱いていない人など、いるはずがないのだ。“知らぬが仏レイシスト” はインスタントな肯定感や一体感のために「個」を「個」として認識せず、「正常」の範囲外にいる人間を「正義」の名のもとに無視し排除する(知らないふりをする)。しかし彼らが知らないふりをするのは、何も他者の “人でなしの感情” だけではない。自分自身の中に生じている “人でなしの感情” も、知らないふり、見なかったふりをしているはずである。“human rights” には「生存」だけでなく「自由」の確保も含まれているから、“知らぬが仏レイシスト” 自身も、「生きづらさ」を感じるに違いないのだ。“human rights” が重視されない <現実の社会> においては、“馬鹿者” や “知らぬが仏レイシスト” が互いに互いを監視し合い、客体としてしか生きられない社会をより強固に作りあげている。

 

 

【客体からの脱却と希望】

 

“言わないで 言わないで 今なんか

 うざいの耐えられないから”

 

客体であることでしか存在が許されない社会の中で、ここにきて主人公は拒絶の姿勢を見せる。“言わないで 言わないで” というのは明確に、他者や社会から見られること、振る舞いを強制されること、価値を値踏みされること、客体として存在することへの拒絶の姿勢である。「言うな」という命令の形はとっていないものの、1番のサビでの懇願の姿勢とは根本的に異なる。“生きさせて 息させて 遺棄させて” “狂わせて 狂わせて” はすべて、「自分がどのようにあるかを相手に委ねる」という形だが、“言わないで 言わないで” は「相手がどのようにあるかを自分から変えようとする」形だからだ。矢印はこれまで、周囲から自分に向く一方だったが、NOの矢印がここでは自分から周囲へと向けられる。

NOを周囲へ差し出す理由は、“今なんか うざいの耐えられないから” だ。“うざい” という言葉は、曖昧で広い意味を持った言葉だと思う。うざったい、不快である、煩わしい、など、とにかく嫌悪感や不快感があることを示す言葉だ。そこにさらに、“なんか” という前置きがつく。「なんかうざい」というのは、「○○だからうざい」のように言語化された理由があるのではなく、「明確な理由もないが、とにかく不快だ」という意思の表明だと思う。主人公は、「○○を言われることが不快」なのではなく、「何かを言われるのが不快で、その何かというのは明確に言語化できない」という状態にある。そしてそれは、“今” 不快なのであって、しかも “耐えられない” のだ。これは裏を返せば、今まで主人公はずっと「なんかうざい」ことに耐えてきた、ということを示している。1番のサビで主人公は、“なんなら抱いてもいいから” と言っていたが、これは先述した通り「相手の欲望の好きなようにしていいと訴えることで、自分が傷ついてでも “人でなしの感情” を含んだ相手のことを否定しないという姿勢の表明」である。主人公はずっと、相手のことを否定せず “人でなしの感情” を肯定するために傷つき、耐え続けていた。しかしそもそも、“人でなしの感情” とは、「“人でなし” と思われてしまうくらいに相手にとっては嫌悪感を抱く、相手を傷つけてしまう思考/感情」のことであって、何も誰かの感情に嫌悪感を抱いたり傷ついたりするのは主人公も例外ではない。“人でなしの感情” を肯定するために、それを受け入れ、客体であり続けた主人公は、それを受け入れ続けたがゆえに、傷つき、耐えきれないほどに不快感で一杯になっているのだ。その矛盾が、“なんか” という部分に表れているように思う。

 

“車乗って来るまでに 携帯は

 通信制限超えてとまった”

 

非常に解釈の難しい部分だ。車に、「誰が」「なぜ」乗っていて、「携帯が通信制限を超えてとまった」のは何を意味しているのだろう。

描写としては、「主人公が車で来る誰かを待っており、そのあいだに携帯をいじっていたら、データ容量が制限を超えてとまってしまった」という状況だろう。私がこの歌詞の部分を聴いてぱっと思い浮かんだのは、「パパ活の相手(パパ)が来るのを待っていたのかな」ということだった。「パパ活の相手」というのは、自分を客体として扱う存在であり、そういう存在を主人公は「今なんかうざい」と感じている。そんな相手のところに「行く」のではなく、「来る」という部分から、“言わないで” と客体であることを拒みつつも、主人公が主体にはなり切れていないことが暗喩されている。“携帯” は、この考察の中で何度も例としてSNSのことを引き合いに出しているが、無数の他者と繋がるためのツールであり、他者との接点をつくりだすツールだ。そしてそんな道具を使いつつも、他者と繋がるために必要なキャパシティ(データ容量)は、許容値(“通信制限”)を “超えて” 主人公はこれ以上誰とも関われないようになった(“とまった”)。

パパ活の相手」かどうかはわからないが、友人や恋人、とにかく誰かのことを主人公は待っている。冒頭で “電車” が主体と客体の意味の揺らぎの象徴として登場したが、ここでの相手は “車” という移動手段を用いている。電車ではなく車に乗って来るということは、主体や客体であることに揺らぎがない存在ということだろうか。その存在は車に乗って直接会いにくるというのに、そして相手と直接会うために主人公はその場にいるのに、その相手と会うより前に “携帯” でその場にいない他者と繋がり、そして許容値(通信制限)を超えてその場にいない他者とは繋がれなくなる。繋がりたくなくなる。

思うのだが、通信制限を超えた後、主人公はどうなっただろう。携帯によって誰かと繋がれなくなった後でも、通信制限を超えようと、車は来たのではないだろうか。当たり前だ。通信制限を超えようが、生身の人間とは会うことができる。話をすることができる。そう考えると、主人公が待っていたのは対話をすることができる人間かもしれない。一方的になりやすいインターネットという場での不特定多数、無数の人間たちとのやり取りは許容値を超えても、車に乗ってやってくる生身のたったひとりの人間とであれば、対話する余地があるのかもしれない。客体であることに疲れ果てた主人公であるが、この部分の歌詞は、生身の人間とであれば、一方的な客体として扱われるだけではなく対話できる可能性が残っている、というようにも読めた。主人公は客体であることにうんざりし、周囲を拒みながらも、「対話のフィールドを求める気持ち」=「希望」は失っていないのだ。

 

“それっぽいうたで流行ってる

 前髪長すぎ予言者 話暗くて勘弁”

 

またも “うた” というメタ的な要素が入ってくる。2番のサビの歌詞には “ぼく” や “お前” などの人称代名詞が出て来ないから、主語が判然としない。ストーリーとして見た場合は、ずっと一貫して “ぼく” の話なのではあるが、“ぼく” と「大森靖子=この作品世界の創造者=神」の距離感は非常に流動的だ。それでも、ここでは “ぼく” の物語として歌詞を捉えてみようと思う。

車が来るのを待っていた描写から、 “それっぽいうた” という歌詞に移ることを考えると、先ほど「主人公は携帯でSNSか何かをし、他者と繋がっていたが、その過程で通信制限になった」と考察したが、もしかすると主人公は “うた” を聴いていたのかもしれない。

“うた” は “それっぽいうた” であり、“流行ってる” ものだ。「それっぽい」というのは一般に、もっともらしい、とか、まことしやかだ、とか、表面的には筋が通っているようだが実質は違う、といった意味で使われる言葉だから、“それっぽいうた” とは「もっともらしい歌」、聞き手側としては感情移入がしやすく「刺さりやすい歌」ということになるだろうか。「流行ってる」のだから、多くの人に刺さっている歌、同質なものとして共感される歌、ということになるだろう。1番で考察した通り、歌が共感されるかどうかは聞き手側の問題であり、歌が刺さってしまった場合、作り手側が異質であることを肯定することを目的に歌を作っていた(些細な感情の違いを無視しないようしていた)場合、「人違いバラバラ殺歌」になってしまうし、最初から共感されるように作られていた(同質であることによって聞き手を肯定しようとしていた)場合、それはただの「殺歌」とでも言うべき歌になる(些細な感情の違いを殺す歌だから)。

ここにおいて主人公が聴いていた歌を歌っていたのは、“前髪長すぎ予言者” である。“前髪長すぎ予言者” という言葉から想像されるのは、率直に言えば「うさん臭い」人物だろう。まず、「予言」という言葉からしてうさん臭い。予言とは、通常であればわかり得ない未来のできごとを予知して言及する、ということだが、それこそ予言は「それっぽい」ものにはなっても、未来のできごとを本当にわかってはいないはずである。詳細に未来を知ることなど、不可能だからだ。「前髪長すぎ」という描写から、「本当は見えていない」というイメージが強化されている。「詳細にわかるはずがないものを、あたかも全てわかったかのように言い当てる」という意味では、確かに <他者に同質なものを求めるシンガーソングライター> と <予言者> は同じようなものかもしれない。未来と同様に、他人の心も「詳細にわかるはずがない」からだ。そしてそれをまことしやかに、「あたかも全てわかったかのように言い当てる」歌を作るのだ。つまり、“前髪長すぎ予言者” は「同質であることによって聞き手を肯定しようとする歌」=「殺歌」を作るシンガーソングライターだということがわかる。

そして主人公は、この “前髪長すぎ予言者” に対して “話暗くて勘弁” と思っている。主人公は、“前髪長すぎ予言者” が語る内容は「暗い」から、「聞きたくない」と思っているということだ。上述した通り主人公は、車に乗ってやって来る誰かとの「対話のフィールドを求める気持ち」=「希望」を失っていない。したがって、ここで表現される「暗い」ということは、「対話のフィールドなどもはや残されていない」と語ることだと考えられる。異質性が認められない “馬鹿者” ばかりの社会では、同質性(共感)が主軸の音楽ばかりが大衆に受け入れられ、主人公が抱くような「希望」の歌に辿り着く前に彼/彼女が持つ携帯は通信制限を超えてしまうのだ。

しかし、“話暗くて勘弁” ということは、「明るい話であれば聞くことができる」ということでもある。「明るい」とはこの場合、「異質性を指向する」ということであるから、大森靖子に歌われるまさにこの歌こそが、「明るい歌」であり、この歌が歌われることこそが希望であるとも言える。

 

 

【あなたがあなたのままでいるために】

 

“全てわかったと酔っている歌歌歌歌

 共感こそ些細な感情を無視して殺すから”

 

この部分は先ほど、先だって考察を行った。歌詞世界の中とも思えるし、現実世界の話のようにも取れるため、最もメッセージ性の強くなるパートである。

他人の感情には “人でなしの感情” という、対話なくしては絶対に理解できず許せない部分があるのに、“全てわかった” と歌うのは、“酔っている” からである。この場合の「酔う」というのは「うっとりする」という言葉が近いかと思う。「わからない」という感じ、「未知である」ということは、人間を不安にする。そういう意味でも、他者を “わかった” 気になるのは気持ちが良くなることであり、音楽に乗せてそのような言葉が歌われればなおさらだろう。世間的にも「正しい」と思われるような最大公約数的な感情が歌われるとき、そこでは「正義」という大義名分の下に皆が共感し合い、「個」ではなく「集団」としての肯定感、一体感が生まれる。しかしそのような「正義の面」を被った歌は、“些細な感情を無視して殺す” 歌へと容易に変貌する。共感できず「集団」に入りきれなかった「個」は無視され、殺されるからだ。そしてそんな歌が、“歌歌歌歌”、世の中には溢れているのである。

 

“STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

 STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC”

 

執拗に連呼される “STOP THE MUSIC”。

「音楽を止めろ」。

音楽を止めろ、音楽を止めろ、音楽を止めろ、音楽を止めろ。

これはまるで、「そんな音楽なんて聞くのやめちまえ」というように聞こえる。

しかし、「そんな音楽」というのはどんな音楽だろう。思わず共感する音楽、だろうか。刺さる歌、と言われるようなものだろうか。私は、ここで訴えられているのは、そういったことではないと思う。これまで何度も繰り返し述べてきたように、音楽に共感するかどうかはすべて、聞き手側次第なのである。異質性を指向する歌であろうと、そこに聞き手が共感すれば、その歌は「人違いバラバラ殺歌」に成り下がる。歌に共感するとき、私たちは自分の感情の微妙なニュアンス、感情の「バリ」とでも呼べるような、思わずやすりで削ってしまいたくなる部分を削って、歌が提示する感情に自分の心を押しこんでしまう。

“STOP THE MUSIC”。

ここで問われているのは、音楽を聴く、聞き手の受け取り方の姿勢の問題だ。

 

“刺さる音楽なんて聴くな

 おまえのことは歌ってない”

 

人が皆違う生き物であるということが当然であるように、「歌」と「聞き手」のあいだにもまた、境界線がある。“刺さる音楽” を聴いたとき、「心に深く届いた」と感じるかもしれない。それは、その音楽が自分の心の深い部分に刺さったのではなく、自分の心の深い部分が音楽に共鳴して震えているだけだ。その心を持っているのは、代わりのいないあなた自身なのであって、歌が刺さった形にあなたの心を変形させてはならない。だから、“刺さる音楽なんて聴くな” なのではないだろうか。

“おまえのことは歌ってない”。大森靖子は(ここでは “ぼく” や主人公と表すより、大森靖子と言った方が適切だろう)、この歌を「人違いバラバラ殺歌」ではなくするため、誰の心も殺さないためにこのように歌う。この歌の形の中に、誰の心も押し込めないためだ。他人からは認めてもらえない、許してもらえないような、“人でなしの感情” を持ったままのあなたを肯定している。その感情は、あなた「だけ」が持っている感情だ。だからこれは表面的に、「この歌はあなたのことを歌っていませんよー」という意味などでは決してない。むしろ逆で、あなたの心があなたのままでいられるように、という願いを込めた歌詞なのである。

 

 

【主体性の獲得】

 

“生きさせて 息させて 遺棄させて

 なんなら抱いてもいいから

 狂わせて 狂わせて 狂ってたら

 入場できない?むしろ割引けよ”

 

1番のサビが再び繰り返される。「暗い歌は聴きたくない」と思っていた主人公は、ここでようやく「明るい歌」を聴くことになる。いや、ここでは主人公が訴えている側だから、「歌っている」ということになるだろうか。客体として心を閉じ、身を頑なに守るしかなかった状態から、“STOP THE MUSIC” で一度音楽を止めたことにより、再び主人公は自分の輪郭を取り戻し、対話のフィールドを拡張するために自分の声で訴えかけているように聞こえる。

 

“愛させて 愛させて 愛してる

 一生映えてろ 僕はいちぬけた”

 

主人公はここで、“愛させて“ という要求をする。“生きさせて 息させて” では、他者や社会にとって “人でなしの感情” を抱いている自分を排除しないように訴え、“遺棄させて” では、「刺さる歌に殺された人」を見捨てさせてほしいと訴えた。そして “狂わせて 狂わせて” で、他者や社会とは馴染めない自分を認めてほしいと訴えた。

では、“愛させて” とはどういうことだろう。「愛する」というのは、人によって受け取り方の違う言葉だ。強いて言えば、「かけがえのない存在だと認めて大切にすること」という感じだろうか。意味が幅広い感じは変わらないが、ここで疑問に思うことがある。そもそも「大切にすること」に許可を得ることが必要なのだろうか。“愛させて” というのが、「私があなたを愛することを許してください」という意味だとしたら、それは「愛することすら許されない可能性がある」ということだ。しかしこれはあまり驚くべきことではないように思う。恋人のあいだで、極端な例ではあるが、「24時間すべて何をしているか私に報告しなさい。だって、私はあなたを愛しているんだから」というようなことは、よく起こる話だ。「愛する」ということは、意味の受け取り方の幅広さゆえに、容易に暴力に転じる。それはまるで歌と聞き手の関係性のようだ。主体(愛する側/歌う側)は愛のために他者へ何かしら行動を起こした/歌を歌ったとしても、客体(愛される側/聴く側)の受け取り方によってその行動/歌は何にでも変化してしまう。特に主人公側は、人を傷つけてしまうような “人でなしの感情” を持っていることを前提に行動しているわけだから、“愛させて” と「愛する」ことに許しを乞うことは自然なようにも思う。

「愛する」ことの暴力性を認めながらも、しかし主人公はここで “愛してる” と訴える。この歌において、“愛してる” というような能動的な言葉が出てくることは衝撃だ。なぜなら主人公はここまでの歌詞の中で一度たりとも、“人でなしの感情” が持つ暴力性によって人を傷つけるかもしれない「能動的な」行動をとってこなかったからだ。どれだけ <現実の社会> がおかしいと感じても、「生きる」という生命にとって最も根源的な部分さえ他者に委ね、「刺さる歌は絶対かきたくない」と宣言し、「うざくて耐えられない」と思っても「言わないで」と相手に伝えるだけで、自分からの能動的な行動は一切とらない。それは一重に、“ぼくも なんか 生きてるだけで 加害者だってわかった” からなのだろう。自分の加害性を知った “ぼく” は他者を加害しないために、自分を殺して、殺して、徹底的に客体になる(奴隷になる)まで自分のことを追い詰めていった。そんな優しく、繊細な “ぼく” が、 “愛してる” と、自分の加害性が他者に影響を及ぼすかもしれないことを踏まえた上で感情を吐露しているのだ。このフレーズは、歌詞の中で主人公の大きな転換点であることは間違いがない。

主人公 “ぼく” はなぜ、客体から主体へ大きく転換を果たしたのだろう。ここまでの歌詞を見てきてわかる通り、主人公は <美しい社会> =「すべての人間に人権が認められる社会」を目指して、ずっと彼(彼女)なりの戦いを行ってきていた。しかし <現実の社会> は、果たして変わっただろうか。<美しい社会> を目指していた “ぼく” は、社会を構成する “馬鹿者” との対話を行うために、相手に懇願したり、異質性を認める歌を作ったりしてきた。しかしそれらはすべて、「個=孤独であること」を認めず、一体感という “正義の面” を被った “知らぬが仏レイシスト” の「集団」によって、なかったことにされてしまったではないか。<現実の社会> は何ひとつ変わらなかったのである。“ぼく” は社会を変えるために、「他者を加害するかもしれない方向」=「主体」へと舵を切ることとなる。しかしその主体性が発揮されるのは、「愛する」という行為によってだ。なぜもっと直接的に、「訴えて意見をぶつける」や、「無理矢理わからせる」という選択肢を選ばなかったのだろう。それは、「訴えて意見をぶつける」「無理矢理わからせる」という行為は、相手を客体(奴隷)に変えてしまう行為だからだ。「正義」の名の下に相手を自分が思う「正常」の姿に変えるのでは、本質的に現状の <現実の社会> となんら変わりがない。“ぼく” が目指しているのは <美しい社会> の実現、ひとりひとり、すべての人間が「主体」=「個」である社会の実現なのだ。そのために導き出した答えが、「愛する」ということだったのではないか。つまりここでは、「愛する」というのは、「相手の主体性を認めた状態のまま、自分の考えを伝える」ということになる。自分の考えを伝えるのは、加害に繋がることかもしれない。しかしその根底には、「愛」が、相手の存在を、“人でなしの感情” ごと丸ごと認めた上で対話を行おうとする強い意志があるのだ。決して相手の主体性を損なわず、自分の思い通りの客体(奴隷)にしてしまわないよう、相手を尊重しつつ対話を行う。間違えることもあるかもしれない。 “ぼく” だって “人でなしの感情” を持っている人間なのだから、愛が暴力に変わることももちろんあるだろう。しかし <美しい社会> を目指す以上、「愛さない」という選択肢はないのだ。対話を試みないという選択肢は、ないのだ。

それにしても、ここで主人公がとる「愛する」という選択には、凄まじいものを感じる。なぜなら、憎んでいると言ってもよいはずの “馬鹿者” たちを変えるために、“馬鹿者” を愛するのである。 “愛させて 愛させて” という歌詞は、先ほど「愛することを許して」という意味だと解釈したが、「愛したいけれど、どうしても愛せない。でもどうにか、愛させて」という激しい葛藤を表しているようにも解釈できる。そうして最後には “愛してる” に行き着くのである。 “愛させて 愛させて” という葛藤を孕みながら「対話」を行い、許せない、愛せない、と思っていた部分まで、愛する部分が広がったという実践の結果だと解釈することもできるだろう。

こうして客体から見事に主体へと転じた主人公は高らかに宣言する。“一生映えてろ 僕はいちぬけた” と。「映える」というのは、「インスタ映え」などに使われる際の「映え」だと考えられる。これは、「SNSで投稿した際に、多くの人から好意的に受け取られそう」という意味だと思うが、この「映える」という言葉は、客体であることの典型的な例だろう。「一生客体のまま、奴隷のままでいろよ。僕はそんな社会からいちぬけた」と宣言しているのである。“いちぬけた” というのは、“遺棄させて” と同じで、「客体となって心を殺しているような人達のことを見捨てる」という意味だと考えられるが、ここでも見事に「“遺棄させて” という受動の形」=「客体」から、「“いちぬけた” という能動の形」=「主体」へと鮮やかに言葉が言い換えられている。

気づいている方も多いかもしれないが、“ぼく” はいつの間にか、“僕” という表記へと変わっている。漢字の閉じ開きは、歌詞全体を見てみると、<“ぼく” と “僕”> だけでなく、<“おまえ” と “お前”>、さらには <”うた” と “歌”> と、意図的に使い分けられていることがわかる。冒頭にて述べたように、<“ぼく” と “僕”>、<“お前” と “おまえ”> は同一人物の異なる側面を指すものだと私は考える。もちろんそれは、「客体」としての側面と、「主体」としての側面である。以下でより深く考察を進める。

 

“アンチも神もおまえ自身

 僕はここにいる肉の塊さ

 人違い 僕を壊して

 シンガーソングライター

 救いたい おまえじゃなかった”

 

これで歌詞はすべてである。

漢字の閉じ開きの使い分けについて知るため、全体を通してそれぞれがどのように使われているかをまとめてみる。

 

≪ひらがな表記≫

「ぼく」→ 生きてるだけで加害者、歴史がつくった存在、美しくない

「おまえ」→ 刺さる音楽を聴いているが「おまえ」のことは歌われていない、アンチであり神、救いたくない存在

「うた」→ それっぽい、流行っている

 

≪漢字表記≫

「僕」→ 「映え」からいちぬけた存在、肉の塊、人違い、壊してほしい

「お前」→ 「お前」に刺さる歌は絶対かきたくないと思われている

「歌」→ 人違いバラバラ殺歌、全てわかったと酔っている

 

“一生映えてろ僕はいちぬけた” と歌われていること、そしてその直前に “愛してる” とあることから、“僕” は「主体」(眼差す側の存在)であることがわかる。同様に “お前” は主人公から「刺さる歌は絶対かきたくないと思われている」という部分から、「刺される側」=「客体」ではないということがわかる。漢字表記のものは、「主体」側であるということだ。「歌」は人違いバラバラ殺歌であり、全てわかったと酔っているから、誰かを刺すような存在である。

反対に、ひらがな表記のものは「客体」側(眼差される側の存在)である。“ぼく” は生きてるだけで加害者だと「思われる」ような存在だし、歴史により「つくられた」存在だし、美しくないと「思われる」ような存在だ。“おまえ” は刺さ「れる」側の存在であり、“うた” はそれっぽいと「思われる」存在で、流行っている(大勢の人に聴か「れる」)存在である。

以上のことを踏まえて、最後の部分の歌詞を考察する。

“アンチも神もおまえ自身” というのは不思議な言い回しだ。“アンチ” というのは、特定の対象を嫌っていて、反対意見を言ったり批判したりする人々のことで、“神” というのは「この曲マジ神!」とか、「このバンドは神!」のように、特定の対象に肯定的な感想を抱いたり共感を抱くときのその対象のことを言うと思う。「特定の対象」がいるからこそ “アンチ” や “神” という概念は成り立つのだが、この曲ではその概念は「おまえ自身」だと言っているのである。

“僕はここにいる肉の塊さ” という言葉がこれに続く。“僕” というのは主体(他者とは異なる意思や感情を独自に持った存在)であるが、“肉の塊” という言葉からは、主体でも客体でもないただの物質、というニュアンスが感じられる。ここでは、“僕” が “野菜や肉” のように素材化(客体化)されているのではなく、“僕” から「他者とは異なる意思や感情」を取り去って考えれば、“僕” はただの物質でしかない(他者の意思や感情に従う存在=客体ですらない)という主張をしているのである。つまり、“おまえ” がアンチになっている or 神だと思っている “僕” は、“おまえ” が想定したような存在では決してなく、“おまえ” が勝手に想定した対象(「仮想の僕」とでも呼べるだろうか)は、“おまえ” の思考の中にいる存在、“おまえ” 自身なのだ、ということである。

この曲の中では、「刺さる」ということも、「アンチ」であることも、「神」という発想も、すべてが否定されている。肯定的であれ否定的であれ、自分とは異なる他者(作品)の存在を、勝手にこちらで規定することに徹底的に抵抗しているのである。それは「異質性」=「わからなさ」の肯定である。

とはいえ、「アンチ」も「神」も、“おまえ” が能動的に想定しているものなのではないだろうか、という疑問が生まれる。しかし、「主体」という存在を、「他者との違い(輪郭線)をきちんと把握している存在」で、「客体」という存在を、「他者から想定された存在へと形を流動的に変えてしまう輪郭線の曖昧な存在」だとして捉えれば、この疑問は解決する。「アンチ」や「神」を想定する “おまえ” には、「アンチ」や「神」が自分自身であるという発想がない。対象との輪郭の境界線をうまく引けていない状態なのである。「アンチ」というのは、一見、「嫌い」や「反対」という部分でその対象との線引きをきちんとできているように思えるが、その対象と自分との違いを違いだと認識できておらず、相手を自分の想定する自分の「正しさ」に修正できると思い込んでいる。何度でも繰り返すが、すべての人間は違う生き物なのだから、対象のすべてに共感や共鳴することができないのと同じように、すべてを反対や批判することなどできないのだ。他者に対して「アンチ」であることや、他者を「神」だと考えることは、その相手をきちんとひとりの人間として認識せずに、“人でなしの感情” を否定したり “共感” をしたりすることで「個人」の輪郭線を把握することを怠る、ということでしかない。

その上で語られる、“人違い 僕を壊して” という言葉。曲を聴くとき、誰かと関わるとき、「アンチ」になることや「神」を想定することは、「輪郭線を把握することを怠る」ことだと言ったが、それと同時に「輪郭線を完全に把握する」=「わかる」こともありえない。何度も曲を聴くこと、何度も他者と対話をすること、それにより少しずつ歌詞の意味を把握したり、他者を理解したりしていくのだ。しかし自分が把握する対象の輪郭線は、常に対象そのものの本当の輪郭線とはずれている。主体である限り、その意思や感情は時々刻々と変化していくし、把握できるのは「仮想の対象」であったり「過去の対象」である。つまり “人違い” なのである。ここで、“僕を壊して” というのは、その “人違い” を肯定する言葉のように響く。“僕” と対話を行う相手が “おまえ” であった場合、“おまえ” は “僕” の輪郭線を捉えようとしても「アンチ」になったり「神」を想定したりするだけで、“僕” を「壊す」ことはできないだろう。しかし “僕” と対話するのが主体性を獲得した “お前” だった場合。“お前” は自身の “人でなしの感情” をも認めた上で、“僕” を「個人」として捉えようとするだろう。そのとき、“お前” は主体として、“僕” のことを “愛する” ことができる。“僕” を “ぼく” に変えず、“僕” の主体性を損なわないまま考えを伝えたり輪郭を捉えたりできるのだ。そのとききっと、“僕” は「壊れる」。“シンガーソングライター” として眼差されていた “ぼく” は “僕” として初めて存在することが可能となり、この『シンガーソングライター』という曲は <美しい社会> を実現するための歌として、ようやく機能するのだ。“僕を壊して” という言葉は、“おまえ” を “お前” にする言葉、すなわち聞き手に主体性を持たせる祈りの言葉となる。

曲の最後は、“救いたい おまえじゃなかった” という歌詞で締めくくられる。

この曲の構造として面白いな、と思うのは、“救いたい おまえじゃなかった” という言葉を受け取ったときに、「大森靖子が救いたいのは、私じゃなかったんだ」というように歌詞をそのままの通りに受け取る人(客体)が、見事に選別されてしまうという点だ。まさに曲の歌詞通り、そこでそう受け取ってしまう人は「遺棄」される。

この最後の歌詞ももちろん、<現実の社会> の中で主体性を著しく損なわれてしまった人、「自分の命の価値が他者から値踏みされている」と感じてしまうような人に、「あなたは誰かから不当にジャッジされるような存在ではない。あなたの命はほかの誰から何を言われようと輝いて美しい」と力強く訴え、「救おう」とする希望に満ちた歌詞である。

 

 

最後に、この曲『シンガーソングライター』は、シングル盤では上記の通りの歌詞となっているが、アルバム『Kintsugi』に収録されている『シンガーソングライター –Kintsugi–』バージョンでは、 “愛させて 愛させて 愛してる” の後の歌詞が以下のように変更になっている。

 

“欲望丸出しちんぼみたいだ

 あそこに刺さる歌なんかで

 無差別セックス上等か?

 人違いバラバラ殺歌

 シンガーソングライター

 

 救いたい おまえじゃなかった”

 

軽くさらうだけにするが、ここでは「前髪長すぎ予言者」のような “シンガーソングライター” によって作られた “人違いバラバラ殺歌” が人々を無差別に「刺して」しまう様子を、“セックス” に例えた歌詞となっている。たしかに、「いろいろな他人と一体になることで気持ち良くなる」≒「最大公約数的な感情を歌にすることで多くの人に刺さって一体感を得る」という部分では、かなり共通する部分があるように思う。ここでいう「ちんぼ」は「正義」「万人受け」「映え」という名の欲望であり、それによって気持ち良くなることが <現実の社会> をより強固な地獄にしていることを風刺している。“なんなら抱いてもいいから” の部分の歌詞ともリンクしているあたりが、「上手いなあ」と感心させられる。

 

 

【おわりに】

 

このような超超超長文を最後までお読みくださった方、本当にありがとうございます。

言うまでもないことですが、「歌詞」はあくまで「歌詞」であり、上記の解釈はあくまで「私個人の解釈」です。ほかの誰のものでもない、ただ私だけの解釈です。

とはいえ、ほかの人の考察なんかを読むと、その考察の線でしかその歌を捉えられなくなたりもするよなあ、というところもあり、『シンガーソングライター』という曲は2020年の7月29日にリリースされた曲でもあるし、もう1年ほど経つし、大森靖子ファンはもうみんなこの曲自分のものになってるよなー、という気持ちで、考察を書きました。

それぞれの「正しい」が溢れ、強い言葉に引っ張られそうになることも多い時代かと思います。ますます自分の頭で考え、自分の言葉で話すことが大切になってきていることを感じます。

誰でも簡単に、世界に発信することができるようになった時代だからこそ、なんのための発信なのか、それは愛に基づいているのか、優しさに基づいているのか、そういったことを考えていきたいと思います。人は加害性を持っているし、思い込みを持っているし、それでも「対話」によってしか世界は良くならないと私は信じています。ときに誰かを傷つけ、不快にさせてしまっても、対話を行うことを私は諦めたくありません。

このような素晴らしい楽曲を生み出してくれた、大森靖子に感謝しています。彼女に、大きな愛を込めて。

 

2021.08.21 あわいけん

Twitter: @awai_ken